謡曲「忠度」


世阿弥作の謡曲「忠度」を現代語訳。
登場人物は、前ジテ(前半の主役)が浦の老人 、後ジテ(後半の主役)が平忠度。
ワキ(脇役)が旅の僧。ワキ連(ワキの助演者)が同行の僧。
場面は摂津国の須磨の浦。

1.
ワキ
ワキ連
花さえも心を悩ますつらいものだと捨てた身なのだから、月に雲がかかっても気にかけまい。
ワキ 私は俊成(※藤原俊成)の身内にあった者でございます。さても俊成がお亡くなりになって後、このような姿(※僧形)となりました。また西国を見ていないので、西国を行脚しようと志しています。城南の離宮に赴き、都を隔てる山崎を過ぎ、
ワキ
ワキ連
関戸の宿は名ばかりで関所はなく、落ち着いて泊ることもできないのが旅の習わし。儚い我が身はいつも浮世の塵にまじわっているが、その塵の浮かぶ芥川を渡り、猪名の小篠を分け過ぎて、月も影を宿している昆陽の池の水底は清く澄み切って、芦の葉を吹き分けて過ぎる風の音は、聞くまいとするのに物憂い音を響かせて、世を捨てた身でもやはり憂きことがあるのだ。憂きことから逃れられない世の中だが、心は徒に夢見る。空しい夢から覚めた枕元に遠くから難波の寺(※天王寺)の鐘の音が聞こえる。難波をあとにして鳴尾潟に着くと、波続く沖遠くに小船が浮かんでいる。
2.
シテ まったく世を渡るための習わしなので、こんなにつらい仕事にも懲りずに須磨の浦で潮を汲む。潮を汲まないときにも塩を焼くための木を運ぶので、着慣れた衣は乾く間もなく、暇もない。浦から山へかけて働いて住む須磨の海は、海人の呼び声が絶え間なく、しきりに鳴く千鳥の声は遠い。そもそもこの須磨の浦と申すのは、寂しいためにその名を得た。わくらはに問ふ人あらば須磨の浦に、藻塩垂れつつ侘ぶと答へよ。誠に漁の海人の小舟、藻塩の煙、松の風、どれひとつとして寂しくないものはない。またこの須磨の山陰に一木の桜があります。これはある人の墓じるしの木である。ことさら時もちょうど春の花時だから、手向のために通りすがりの縁に過ぎないが、山から帰る折ごとに薪に花を折り添えて手向をなして帰ろう。
3.
ワキ もしもし、ここにいる老人、そなたはこの土地の木こりですか。
シテ そうではありません。この浦の海人です。
ワキ 海人であるならば浦に住むはずなのに、山のある方に通うのならば山人と言えよう。
シテ そもそも海人が汲む潮を、焼かずにそのまま置きますか。
ワキ 誠にこれは理である。藻潮を焼いている夕煙に、
シテ 絶え間があっては遅いと塩を焼く木を取りに行く、
ワキ その道は浦と山とでは違っているが、どちらも人里離れた、
シテ 人の声も稀にしか聞こえない。その須磨の浦に、
ワキ 近い後ろの山里に、
シテ 柴というものがありますので、塩を焼く木のために海人は通ってくるです。あまりに愚かな、お僧の仰せ言ですよ。
実に須磨の浦は他の所と変わっていることだ。花につらいのは峯の嵐や山おろしで、山からの風の音を厭うていたが、須磨の若木の桜は、海と少しも隔てていないので、浦から通う風に山の桜が散っていることだ。
4.
ワキ もしもし、老翁殿。もう日が暮れてきましたので、一夜の宿を御貸しください。
シテ ああ情けない。この花の陰ほどよいお宿がありましょうか。
ワキ 誠にこれは花の宿によい木であるが、しかしながら誰を宿の主人として頼んだらよいのか。
シテ 行き暮れて木の下陰を宿とせば、花や今宵の主ならまし」と詠んだ人はこの木の苔の下に埋められているのだ。我等のような海人でさえも常に立ち寄り弔い申し上げるのに、お僧達は通りすがりの縁に過ぎないとはいえなぜ弔いなさらないのですか。愚かな方々ですね。
ワキ 「行き暮れて木の下陰を宿とせば、花や今宵の主ならまし」と詠んだ人は薩摩の守。
シテ 忠度と申した人は、この一の谷の合戦で討たれた。この木は、ゆかりの人が植えおいた、墓じるしの木でございます。
ワキ これはなんと不思議な縁で出逢ったことだ。あれほどまでに俊成が
シテ 和歌の友として親しくしていたので、浅からぬ縁のある
ワキ 宿は今宵の
シテ 主の人
名も忠度なのだから、法の声(※読経)を聞いて極楽にある花の臺(うてな)にお座りなさい。
シテ ありがたや。今からは、このように弔いの声を聞いて成仏できるのが嬉しいことだ。
不思議なことだ。今の老人が手向の声を身に受けて喜ぶ気色が見えるのは何の故であるのだろうか。
シテ お僧に弔われ申そうとしてこれまで来たのだと、
言い、夕方の花の陰に寝て夢の告げをもお待ちなさい。都へ言伝て申そうとも言い添えて、花の陰に立ち寄ったかと思うと、行方がわからなくなった。
5.
6.
ワキ まず都に帰って、定家(※藤原定家)にこのこと申し上げようと、
ワキ
ワキ連
言い、夕月は早くも光がかげり、自分の友を呼ぶ千鳥の群の姿も見えない磯辺の山の夜の花に旅寝して、浦風までも花が散らないかと心配して聞くからか音がすごい。須磨の関所辺りで旅寝をしている。
7.
シテ 恥ずかしいことだ。亡くなった遺跡で、お僧の夢の中に、生前の姿を現わすことは。心が昔のことに執着しているために迷っている。そんな昔を物語を申し上げるために、幽霊の姿になって来たのだ。ただでさえ妄執の多い娑婆であるが、千載集の歌の数には入ったけれども、天子の咎めを受けた身の悲しさは、詠み人知らずと書かれたこと。それが妄執の中の第一である。しかしながら、それを選じてくださった俊成さえお亡くなりになったので、御身は身内にあった人なので、今の定家君に申して、できれば作者をつけてください、と夢物語を申し上げている。だから須磨の浦風もお僧の夢を覚まさないようにを心して吹いてくれ。
8.
誠に和歌を好んだ家に生まれ、その道を嗜み、心を寄せたことは人倫において最も望ましいことだ。
ワキ 中でもかの忠度は文武二道をお受けになって、世間の人々に高く評価されていた。
そもそも後白河院の御時に千載集を撰ばれる。五条の三位俊成の卿が承って、これを撰ず。年は寿永の秋の頃。都を出た時なので、随分と忙しい身であったが、和歌を愛する心から狐川より引き返し、俊成の家に行き、歌の望みを嘆願したところ、望みが足りなかったので、また武士の職務に携わって西海の波の上を行き、しばらくの間、頼みにしていた須磨の浦は光源氏の住んだ所で、平家のためには縁起の悪い場所であったことを知らなかったのは、はかないことであった。
9.
さて、一の谷の合戦は、もうこれまでよと見えたので、皆々舟に乗って海上に浮かぶ。
シテ われも舟に乗ろうとして、水際の方に出ていったが、後ろを見たところ、武蔵の国の住人に、岡部の六弥太忠澄と名乗って6、7騎で追いかけてきた。これこそ望むところよと思い、駒の手綱を引き返すと、六弥太がすぐにむんずと組みついて、両馬の間にどうと落ち、かの六弥太を取って抑え、すでに刀に手をかけていたが、
六弥太の従者が御後ろから立ち回り、上にいらっしゃる忠度の右の腕を打ち落とすと、忠度は左の御手で六弥太を取って投げのけ、今はもう最期だとお思いになって、そこを退きたまえ、人々よ、西方極楽浄土を拝むのだとおっしゃって、光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨とおっしゃった御声の下からも六弥太が太刀を抜き持ち、ついに御首を打ち落した。痛わしいことだ。
シテ 六弥太が心に思うには、
痛わしいことだ。かの人の御死骸を見奉ると、その年もまださほどとっていない。長月(※旧暦9月)頃の薄曇り。降ったり降らなかったり定まらない時雨が降りかかって、斑紅葉の錦の直垂は普通の人ではあるまい。たしかにこれは公達の御中のひとりであろうと御名を知りたく思っていたところ、箙(※えびら:矢を入れて背に負う道具)を見ると、不思議なことに、短冊を付けられていた。見ると旅宿の題を据え、行き暮れて、木の下陰を宿とせば、
シテ 花や今宵の、主ならまし。忠度と書かれていた。
疑いもなく、名高い薩摩の守でいらしゃったのだ。痛わしいことだ。御身がこの花の陰にお立ち寄りになったのを、このように物語を申そうとして、夕暮れのように日を暗くして留めたのだ。今は疑いは少しもあるまい。私は冥土に帰るのだ。我が遺跡を弔ってください。木陰を旅の宿とせば、花こそ主なりけれ。(※シテのワキに対する言葉)

前ジテの浦の老人は、平忠度の霊の化身。

 

日本古典文学大系『謡曲集 上』(岩波書店)を参照